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2014年1月28日 (火)

矢矧

26日の曜日、友人の結婚披露宴のあった新宿から、友人の齋藤正二郎氏のお誘いで渋谷の金王神社に参りました。

日本の代表的建築家、実業家、元日本設計代表取締役社長。株式会社日本設計名誉会長、株式会社日本設計池田研究室代表、ハウステンボス株式会社代表取締役会長、環境NPO「聚」理事長、日本の高層建築の黎明に携わった池田武邦氏のお話を聞かせて頂く為でした。

{日本の風景を変えた男たち 廃虚から超高層ビルそして池田武邦が語る戦後} という特集でNHK ハイビジョン特集に出演なさっています。
 (2008年2月18日放送)
斎藤さんにお誘い頂いたのは、池田氏が海軍として軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗船していたお話で矢矧なら「矢作千鶴子」と思ったからだそうです。

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矢矧 (やはぎ)は、日本海軍の防護巡洋艦の後継として登場した軽巡洋艦。阿賀野型の姉妹艦の3番艦。
1941年(昭和16年)11月11日、阿賀野型3番艦として佐世保海軍工廠で起工され、1942年(昭和17年)10月25日進水。徹底的な機密保持のため、進水式で配られた記念酒盃には「矢矧」の名はなく、かわりに矢に萩の花をあしらった絵が描かれていたという。
1944年。
阿賀野とともに空母「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」、重巡洋艦「妙高」「羽黒」の護衛艦として海上戦火の中、多くの船員を救助して来た矢矧。
しかし、空母「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」、重巡洋艦「妙高」「羽黒」の殆どが海中に沈み、毎日毎日...多くの多くの...戦友達を失ったと言う。
海上戦と言え、殆どが空中での戦い.....にも関わらず、空母を失い、飛行機も無い負け戦にあり、最後迄残った矢矧の船員には「負ける」という思考は無かったと言う。
1945年、徳山沖に停泊中の戦艦「大和」に合流。「敵の後方補給路を『矢矧』で暴れて寸断する」との提案により、「矢矧」は第二艦隊に所属。「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄へと出撃。
4月7日、矢矧の左舷中部に魚雷が命中。さらに艦尾に魚雷が命中.....機関停止。護衛する「大和」は集中攻撃の標的になり沈没。矢矧は駆逐艦「磯風」(第十七駆逐隊旗艦)に接近命令を受け、「磯風」側から何度か接近を試み、速度を落として「矢矧」に横付け、磯風はその瞬間を狙われ、至近弾が命中、航行不能となった。
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生還した池田氏のお話に釘付けになりました。

その壮絶な時を青春時代として過ごし、帰還した直後、東京大学入学から卒業。建築士の一線での活躍......
戦中戦後を過ごした我々の先輩に敬意を払わない訳にいかない。

「『殺されると言う恐怖がないこの世』に『それ以上の怖いもの』はない。どんな苦難でも乗り越えられます」

池田氏のその言葉は私に人としての自由のありがたみを再燃させた瞬間でした。
一昨年他界した父とほぼ同年。
そして父も海軍でした。
「先生、私は矢作と申します」
これ以上無い様な笑顔に、なんだか、親父さんに再会した気持ちにならせて頂きました。Photo

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